企画部よりご案内

         企画部長 若山 有
         


     厚生労働省より2月23日付けで告示になった「理容業の振興計画」 
  
 

  ストーカーや各種犯罪から緊急時に駆け込める理容店
                                                子供110番      

   

 資料室より

          §§§ 髪結職の発祥§§§

髪結職の発祥は鎌倉時代にさかのぼる、古来わが国の風俗として髪は

自分で結うか家人が手伝って結髪していた。

「洛中洛外屏風」(京都の市中とその郊外の名所や生活風俗を描いた絵

画室町後期により主として屏風絵として発展、時には絵巻や画帳も作ら

れ狩野永徳筆上杉家本などがある)が、髪結期を裏付ける代表的資料で、

江戸中期につくられた「壱銭職由誌早vと言う伝承資料もその経歴の一

端を記しており、ともに髪結職のルーツを知ることの参考としている。

髪結職の発祥は十六世紀後半室町時代後、それを絞れば「織田信長」

が台頭してくる永禄(1558)年をそうへだたらない時期と言えよう。

※ 参 考 ※

江戸時代から歯に伝わる「壱銭職由緒書」は、前文1,500字ほどの漢文

で書かれたもので、文永年間(1264〜74年)の鎌倉中期、京都北面の武士

で藤原晴基卿は畏人皇90代亀山天皇の御宝物係職務中所預天皇の宝剣

「九竜丸」を紛失、その責任から浪し、子息の三男采女亮政之(うめの

すけ)とともに山口県下関に下り、往来の武士を客として業を営み探索

を続けた。

晴基は弘安(1572)年に没し、采女亮は弘安4年この地を去った。

子孫は髪結を業とし、17代目の北小路藤七郎は元亀三(1572)年、三方原

の戦いにおいて、武田信玄相手に敗退中の徳川家康の軍勢を天竜川渡河の

道案
内をし、無事対岸に着岸した。その勲功に笄(こうがい)(別説、脇差ともあ

)と銀銭壱銭を賜り、以後壱銭職と称えるようになった。

その後、江戸開府とともに召出され「御用髪結」をつとめ、21代幸次郎のと

き江戸髪結株仲間(組合)を申請し、これを享保12(1727)年江戸町奉行 

大岡忠相に差出した、とある。

「壱銭職由緒書」の果たした役割は江戸
時代の髪結職仲間が結成されるようになり

仲間の団結と業組を尊ぶ精
神を伝承したものと思われる。

藤原采女亮政之は、藤原鎌足公五代の孫、従一位太政大臣内麿呂公後、胤北小

路中納言藤原晴元公息男従五下禁裏北面武士、北小路左兵衛尉藤原基晴卿

子息三人嫡子、大内蔵亮元勝、次男兵庫亮元春、三男采女亮政之である。

 嫡子元勝は反物商(呉服)次男元春は染物師の二人者は吉田久左衛門の

介抱のため留洛(京都に留まる)三男采女亮は、父基晴と共に宝物探索のた

め諸国流浪、文永五年長門国(山口県)下関辺に居住、さらに宝物探索の

かたわら、髪結職を業としたことで髪結職発祥の地としている。

※ 理髪と言うと※

平安時代の元服の儀式に加冠、理髪の所役があって「故実拾要巻九」に次

のように教えている。「理髪とは、一々作法有て髪の末を切を理髪と言う

なりー」「加冠」とは元服せらるる童形に、冠を令蒙を言也」加冠の役、鳥帽

子を取ってかぶらせ申す人也。引入(ひきいれ)とも言う、理髪の役髪を結ひ、

髪をはやす(切ることを反対にいう意味言葉)人也、上記二人役め他に、能冠と

言う所役もあって、上記両役の補助者とみられる。下級武人の元服には冠

は用いないけれども(引入)「理髪」はあってその式を行った、とある。

 日本では「 理 髪 」と言う熟語が知られるようになるのは明治十二年に

「理髪人」と記した営業鑑札が発行されるようになってからで、さらに明

治三十四年三月に「理髪営業取締規則」が、警視庁令第十一号で公布され

て公的にハッキりしてくる。

 現在の「理容」と言う熟語が公的に確立されるのは、昭和十年十二月

警視庁令第二十九号「理容術営業取締規則」によってであった。

 ただし「理容」と言う言葉の使用され始めるのは大正以前にさがのぼり、

東京市京橋の遠藤波津子理容院があり、昭和四年(1992)に国際理

容協会、大日本理容協会などが設立されており、すでに業界では一部に

新しいニュアンスを表現している人達もあった。

                           資料提供  山崎富司氏